点评:1994年、110年ぶりに復元されました。
門の右側には、高さ2.5 × 幅3 mほどの巨大な石があります。これは「真田石」と呼ばれるものです。城の入り口には、よくこのように城主の武力や財力を誇示するために大きな石が置かれます。城を訪れる大名がその石の大きさを褒めることが、礼儀の一つだったと言われています。
関ヶ原の合戦後破却された上田城は仙石氏が城主の時代に再建され、7基の櫓(やぐら)と2基の櫓門が建てられました。
明治維新後、西櫓1基を残しそのほかの櫓・櫓門は取り払われました。城外に移築されていた2基の櫓は後に買い戻され、昭和18年(1943)から24年にかけて現在の南櫓・北櫓として再移築されました。平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元されました。
3棟ともに規模は全く同じで、一階は桁行9.85m、梁間7.88m、二階は桁行8.64m、梁間6.67mです。二階は一階より二尺(60.6cm)ずつ内側に入れた梁の上の土台に柱を立てています。つまり、一・二階を通している柱はなく、一階の上に縦横とも四尺ずつ縮小した二階を、そっくり乗せた形となっています。屋根は入母屋造りで本瓦葺です。
外の壁は一・二階ともに下の3分の2ほどを横板張りとし、その上から軒下の部分は、そっくり土壁でおおう「塗籠」としています。この形は寒冷地に多く、また初期城郭建築の様式でもあります。上田城の櫓は初期の建物ではありませんが、真田氏創建当時の古い形式にならっているのかもしれません。城の修築は元通りに直すことが原則であったことからみても、真田昌幸の建てた櫓も同様のものだった可能性は高いと言えましょう。
翻译:1994年时隔110年修复。
大门右侧有一巨石,高约2.5米,宽约3米。这就是所谓的“真田石”。城堡入口处常放置一块大石头,以彰显城堡领主的军事实力和财力。据说,参观城堡的封建领主称赞石头的大小是出于礼貌。
上田城在关原之战后被毁,在战国先生任城主期间重建,建造了七座角楼和两座角楼门。
明治维新后,除西塔楼一座外,塔楼和矢车门都被拆除。搬迁到城堡外的两座炮塔后来被买回,并于1943年至1949年间搬迁为现在的南炮塔和北炮塔。 1994年修复东虎口八仓门。
三栋建筑的规模完全相同:一层梁排9.85m,梁距7.88m,二层梁排8.64m,梁距6.67m。在二楼,柱子竖立在从一楼向内设置二尺(60.6厘米)的梁的基础上。也就是说,第一层和第二层没有柱子穿过,将纵横都减少了四尺的第二层放在了第一层之上。屋顶是人字形和瓦片。
一、二层外墙下三分之二为横板,从檐上至檐下全为漆筐泥墙。这种形式多见于寒冷地区,也是早期城堡建筑的一种风格。上田城的炮塔并非早期建筑,但可能是仿照真田城建城时的旧式建筑。从城堡恢复原状的原则来看,真田正之所建的炮塔极有可能是相似的。