点评:儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。掛川城御殿 は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿しては、京都 二条城など全国で4箇所しかない貴重な建築物です。 書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋 は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化した り災害にあって、二の丸に移りました。 その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和 四十七年から五十年まで保存修理が実施され、昭和五十五年一月二十六日、国 の重要文化財に指定されました。
嘉永七(安政元、1854)年、安政の東海大地震で御殿が倒壊したため、時の 城主太田資功によって安政2年(1855)年から文久元(1861)年にかけて再建 されたのが現在の御殿で、明治元(1868)年までの間、掛川藩で使われました。
掛川城御殿は七棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。最も重要な対 面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなります。
藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなりま す。
東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、 書類の倉庫である御文証などがあります。
小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去さ れてしまいました。 江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は式台玄関から、その他の武士は玄関東側か ら、足軽は北側の土間から入りました。
杉良太郎が所有していた掛川城主の甲冑など5点を掛川市に寄贈しました。
その甲冑などを飾っていました。
翻译:是具有三个功能的设施:举行仪式、正式会议等藩主正式仪式的场所、藩主的官邸以及负责藩内政治事务的衙门。挂川城御殿是一座建于二之丸地区的江户时代后期建筑,是日本仅存的四座城堡宫殿之一,包括京都的二条城。该建筑的建筑风格被称为“书院式”,许多房间都铺着榻榻米垫,每个房间都由推拉门隔开。最初在本丸建造了宫殿,但随着宫殿的破旧和遭受灾难,宫殿被移至二之丸。此后,从1972年到1972年进行了保存和修缮工作,作为纪念江户时代藩政和封建领主生活的有价值的建筑物,被指定为重要文化财产。
1854年东海大地震中,宫殿倒塌,1855年至1861年由时任城主太田助光重建,1868年之前由挂川藩使用。
挂川城宫殿采用松阴式建筑风格,由七座建筑物组成,每座建筑物根据用途分为约 20 个房间。书院楼是举行最重要的面对面仪式的地方,由主室、御书院上室以及观众等候的次室和第三室组成。
领主官邸的小书院由作为领主办公室的小书院和作为领主起居室的长炉房组成。
东侧是负责领地管理的建筑物,包括见附和县令等官员的房间、警卫所、簿记室和御文所(文件储藏室)。
小书院北侧有一间小厨房,但明治时期被拆除。在江户时代,根据社会地位的不同,入口也有所不同:领主和家臣从礼门进入,其他武士从入口东侧进入,步兵从北侧的泥土地板进入。
杉良太郎向挂川市捐赠了挂川城主的铠甲等五件物品。
它装饰有盔甲和其他物品。