点评:新潟県新潟市万代にある「萬代橋」についての情報を発信していきます。今回、「萬代橋」を訪れたのは2024年7月27日です。
最初に「萬代橋」の歴史と概要について紐解いてみると、「萬代橋」は、新潟市の「下大川前通」、「川端町」と「万代」を結ぶ、「信濃川」にかかる美しい連続アーチが特徴的の「鉄筋コンクリート造6連アーチ橋」です。現在の「萬代橋」は三代目で、橋の長さは306.9m、幅は22.0m、そして1日約3万台の自動車の往来を支える大動脈となっていてまさに新潟市のシンボル的存在です。「萬代橋」は、アーチの美しさと花崗岩や御影石を使った石づくりの重厚さが調和し、その姿にはゆとりと風格さえ感じられます。また、昭和39年(1964年)に起きた新潟地震に耐え、市民の避難や救助、災害復旧に大きな役割を果たしました。三代目「萬代橋」は、平成16年(2004年)7月6日に国の重要文化財に指定されました。国道にかかる橋梁で重要文化財に指定されたのは、東京の日本橋に次いで2番目となるそうです。
「萬代橋」の変遷の歴史を見てみると、初代「萬代橋」は、明治19年(1886年)11月から明治41年(1908年)3月まで架けられていました。当初は個人所有の有料橋でしたが、明治33年(1900年)4月に県が買い取り、無料橋となりました。二代目「萬代橋」は、明治42年(1909年)12月から昭和4年(1929年)8月まで架けられていました。実は、明治41年(1908年)3月8日の「新潟大火」により、初代「萬代橋」は半分以上焼け落ちてしまいました。「萬代橋」は多くの人馬車の通行があり、交通上重要な橋としてその通行を一日たりとも止めることが出来なかったため、県は直ちに建設に着手し、明治42年(1909年)12月に二代目萬代橋が完成しました。三代目「萬代橋」は、昭和2年(1927年)7月に起工し、昭和4年(1929年)8月に完成し今日に至っています。三代目「萬代橋」の現橋の架橋75周年を迎えた2004年(平成16年)、国の重要文化財に指定されたのを機に、漢字表記を新字体の「万代橋」から、建設時よりの橋名板表記である「萬代橋」に戻したという経緯があります。
では、早速「萬代橋」を渡ってみたいと思います。まず、「万代」側の橋の手前には、橋の由来や構造等が紹介されている銘板があります。途中には、テラスもあり通行人を気にすることなく、信濃川の流れ、遠くに見える稜線、下流に架かる柳都大橋、新潟の街並みなどを眺めることができます。「萬代橋」の橋詰は、建設当時には、12本の柱で囲まれていたそうです。そのうち現存するのは4本の親柱と3本の隅柱で、残りの5本は、当時のデザインを忠実に再現し、見事に復元されています。「照明灯」もありました。よく見るとこの「照明灯」には、「電車用架線フック」が付いていました。実は、大正14年(1925年)の新潟県都市計画では、新潟駅前から萬代橋を経て、今の新潟市役所まで路面電車を通す計画があった名残だそうです。「下大川前通」、「川端町」側に行くと「新潟ブルースの歌碑」なるものがありました。「新潟ブルース」と言えば、確か歌手の「美川憲一」の持ち歌ですよね。「新潟ブルース」は、新潟県出身の作詞家「山岸一二三」が作詞し、「新潟ブルースの歌碑」は、新潟市市政百周年記念として建てられたものだそうです。「新潟ブルースの歌碑」の前に立って歌詞を読んでいくと「美川憲一」の低温が腹に響くような感じがしました。少し先にある信号(表示名「礎町」)の横断歩道を渡り道路の反対側に行きます。橋の手前の「ホテルオークラ」の植栽の中には、「高浜虚子の句碑」がありました。「高浜虚子の句碑」には、「千二百七十歩なり 露の橋」と刻まれていました。大正13年(1924年)9月11日に、新潟を訪れた俳人「高浜虚子」が、宿泊していた旅館から「萬代橋」を渡って散歩に出た朝に詠まれた句といわれています。当時は二代目「萬代橋」の時代で、今の3倍も川幅があったそうです。「ホテルオークラ」側の橋詰広場から川沿いに下り、「信濃川やすらぎ緑地」の堤防沿いで「萬代橋」の全景の写真を撮りに行ったときに、「吉野秀雄歌碑」を発見しました。「吉野秀雄歌碑」には、「萬代の橋より夜半の水の面に 涙おとしてわが去るむとす」と刻まれていました。この歌は、昭和31年(1956年)11月23日に師である「會津八一」の葬儀を終え、帰途に就く途中で詠んだ歌だそうです。それでは「萬代橋」に戻り「万代」側に向かいます。途中で「信濃川」を行く水上バスが、「萬代橋」の下を通過する光景も見ることができました。橋を渡り終えると橋の由来や構造等が紹介されている銘板そして国の重要文化財指定の銘板がありました。
01_【「萬代橋」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒950-0088 新潟県新潟市中央区万代2丁目4
02_【「萬代橋」へのアクセス】
⑴ 徒歩で
JR「新潟駅」万代口から徒歩で17分1200mほど
⑵ バスを利用して「萬代橋」へ
JR「新潟駅」万代口からバスで約5分
翻译:我们将发送有关新泻县新泻市万代市“万代桥”的信息。这次我是在2024年7月27日参观了万代桥。
首先,我们来了解一下万代桥的历史和概要。 万代桥是一座横跨信浓川、连接新泻市下大川前通、川端町和万代的美丽桥梁。具有连续拱门的桥梁”。现在的万代桥已是第三代,长306.9m,宽22.0m,是日均约3万辆汽车通行的大动脉,是新泻市的象征。万代桥将拱门的美丽与使用花岗岩和花岗岩的石头建筑的坚固性相协调,给人一种宽敞和尊严的感觉。还经受住了1964年新泻地震的考验,在市民疏散救援和灾后恢复中发挥了重要作用。第三代万代桥于2004年7月6日被指定为国家重要文化财产。据说这是继东京日本桥之后第二座被指定为重要文化财产的国道桥梁。
纵观万代桥的历史,第一座万代桥建于1886年11月至1908年3月。最初它是一座私人收费桥,但在 1900 年 4 月,县政府购买了它,并将其设为免费桥梁。第二代万代桥建于1909年12月至1929年8月。事实上,原万代桥的一半以上在 1908 年 3 月 8 日的新泻大火中被毁。 “万代桥”有很多人和马车通过,而且是重要的交通桥梁,一天也停不下来,所以县里立即动工兴建,并于1909年(12日) )第二座万代桥于二月竣工。第三代“万代桥”于1927年7月动工,1929年8月竣工,并延续至今。 2004年(平成16年),第三代万代桥建成75周年,该桥被指定为国家重要文化财产,汉字符号也改为新字体“万代”桥的铭牌名称改回“万代桥”,背后有一个故事。
现在,我想立刻穿过万代桥。首先,在万代这边的桥前,有一个铭牌,介绍了桥的由来和结构。沿途有一个露台,可以观赏信浓川的水流、远处的山脊线、下游的龙头桥以及新泻的城市景观,不用担心路人。据说,万代桥的桥面在建造时被12根柱子包围。其中,仅保留四根主柱和三根角柱,其余五根经过精美修复,忠实再现了原始设计。还有“照明灯”。如果你仔细观察,你会发现这个“照明灯”上附有一个“火车钩”。事实上,据说这是1925年新泻县城市计划的残余,当时计划从新泻站前经万代桥运行有轨电车到现在的新泻市政府。当我去“下大川前通”和“川端町”一侧时,我看到了一个叫做“新泻蓝调诗碑”的东西。说到《Niigata Blues》,我确信这是歌手三河健一的歌曲。 《新泻蓝调》的歌词由新泻县的作词家山岸一文作词,“新泻蓝调纪念碑”是为了纪念新泻市建市100周年而设立的。当我站在“新泻布鲁斯纪念碑”前读着歌词时,我感觉到“三河健一”的低温在我的胃里回荡。再往前走一点,在红绿灯处穿过人行横道(显示名称:“Sakamachi”),然后走到道路的另一边。桥前“大仓酒店”的绿树丛中立有一座“高滨恭志俳句碑”。 “高滨恭志俳句碑”上刻有“一千二百七十级,露桥”的字样。据说这首俳句是1924年9月11日早上,俳句诗人高滨恭志来到新泻,从下榻的旅馆穿过万代桥去马须散步时创作的。当时正是第二代万代桥的时代,据说河水的宽度是现在的三倍。从大仓酒店一侧的桥爪广场沿河而下,沿着信浓川安绿地的河堤拍摄万代桥的全景,发现了吉野秀夫纪念碑。 “吉野秀夫诗碑”上刻有“从万代桥,半夜在水面流泪而走”的字样。据说这首歌是在 1956 年 11 月 23 日,在他的导师会津弥一的葬礼结束后回家的路上背诵的。现在,返回“万代桥”,向“万代”一侧走去。途中,我看到一辆沿着信浓川行驶的水上巴士从万代桥下经过。过桥后,有一块牌匾介绍了这座桥的由来和结构,还有一块牌匾指定它为国家重要文化财产。
01_[关于“万代桥”的快速说明]
⑴ 地址…新泻县新泻市中央区万代2-4 邮编:950-0088
02_【进入“万代桥”】
⑴步行
从JR新泻站万代口步行约17分钟(1200m)
⑵ 乘坐巴士至“万代桥”下车
从 JR 新泻站万代口乘坐巴士约 5 分钟